3月13日、下呂温泉から郡上八幡へ足を伸ばしてみました。
八幡町(はちまんちょう)は、かつて岐阜県郡上郡にあった町である。2004年(平成16年)3月1日に郡上郡の7町村が合併して郡上市が発足し、八幡町は廃止された。
郡上八幡(ぐじょうはちまん)と呼ばれることが多い。古くから郡上郡の政治・商業などの中心地として栄え、郡上市となってからは郡上市役所や岐阜県の出先機関が置かれている。
飛騨高地の南部に位置する。長良川が町域を北から南に貫流しており、市街地の標高は約200mで、町の東西の山地から支流が流れ込む。集落は長良川とその支流沿いに形成されており、長良川と支流の吉田川の合流点付近が市街地である。
町域には南東に突き出た部分があり、小那比川の流域に属する。これも長良川水系ではあるが、合流地点は下流の関市にあり、八幡町内では分水嶺で他地域と隔てられている。また、鬼谷川及び貢間川は木曽川水系である。
※Wikipediaより
最近は観光地を訪ねた際には必ず駅に立ち寄ることにしています。
それは旅の情報が集まっていたり、様々なお店などが集まっているからです。
今回もまずは郡上八幡駅に立ち寄りましたが、なんとも静かな駅で、周辺に特に目立ったお店などはありませんでした。
駅に引き続き、城下町プラザに来るまで移動しました。場所はお城の下手にあり、観光情報はこちらの方が豊富にありました。さて、これから食べ歩きを楽しむことにしましょう。
オーマイガ!
「ちゃんと調べてきなさいよ」ってことなんですけど、時々こんなことがあります。
すっかり当てが外れて、失意の中食事処を探すことに。
営業中とはいえ、中に食事している人影もなく...
ここでも人影がなく...
空腹のまま郡上八幡城へ向かいます。
ちなみに道はかなり狭く、所々切り返しながらお城に向かいました。
普通にクマとかイノシシとか書いてあるんですけど...
幸い何にも出会いませんでしたが。
城山の鳥たちって...バードウォッチングにも魅力的な場所ですね。
八幡城の由緒書きです。
郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある日本の城。城跡は岐阜県指定史跡。復元天守は郡上市指定有形文化財。また続日本100名城第141番に選ばれている。
概要
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川[1]の対岸にある赤谷山[2]に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。「山内一豊の妻」の出身地
土佐藩主山内一豊の妻で、内助の功で有名な「千代」は、郡上八幡城主遠藤盛数の娘であるとする説がある。郡上市の慈恩寺が所蔵する遠藤氏の系図に、遠藤盛数の娘が山内一豊室であるとの記載があったことなどから、盛数の娘であるとする説も有力になってきている。山麓の駐車場には山内一豊と妻千代の像がある。凌霜隊
※Wikipediaより
戊辰戦争の際、郡上藩脱藩士によって組織された凌霜隊は、旧幕府側に立って新政府軍と戦った。城内松の丸に凌霜隊の顕彰碑がある。
戊辰戦争の際に郡上藩脱藩士によって組織された凌霜隊が旧幕府側に立って新政府軍と戦ったそうです。その凌霜隊の顕彰碑があります。
凌霜隊(りょうそうたい)は、慶応4年(1868年)に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊。戊辰戦争において、旧幕府側に立って新政府軍と戦った。
幕末の動乱期、郡上藩青山家中においても、勤王派、佐幕派に分かれて激論が繰り広げられていたが、藩論は勤王と決した。 しかし、徳川家譜代の家臣であった青山家では、情宜的に佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が多数を占め、脱藩して新政府側に抵抗しようとする考えの者もいた。
新政府軍が江戸に迫りつつあった慶応4年4月10日(1868年5月2日)、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)が隊長となり、江戸在番の脱藩士45名による部隊を組織して、これを凌霜隊と名付けた。「凌霜」とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来する。
結成の経緯については、国家老鈴木兵左衛門・江戸家老朝比奈藤兵衛が、幕府側が勝利した際の事も考慮して主導した、藩の存続をかけた二股的な戦略であったという説もある。
慶応4年4月11日、江戸城は無血開城となり、将軍徳川慶喜は謹慎の意を示すため水戸へ出発した。しかし、これに不満を抱いた旧幕府勢力は江戸を脱走し、徳川家の聖地である日光において新政府軍と戦うつもりで、下野国日光を目指した。凌霜隊もこれに合流するため江戸を出発した。
4月15日、境宿において草風隊、貫義隊など旧幕府側の諸隊と合流し、16日、大鳥圭介らが指揮する伝習隊を中心とする旧幕府軍の一隊として、小山宿で新政府軍との戦闘に参加した。スペンサー銃など新式の銃を装備していた凌霜隊は、人数で上回るものの装備で劣る新政府側の笠間藩、壬生藩の部隊を圧倒、旧幕府軍は新政府軍に勝利した(小山の戦い)。
小山宿において新政府軍を破った旧幕府軍は宇都宮に転進、4月19日、宇都宮城に籠る宇都宮藩兵を中心とする新政府軍と対戦した。翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、23日には新政府軍に奪い返され、日光での決戦に向け宇都宮から退却した(宇都宮城の戦い)。
宇都宮から退却した旧幕府軍は今市に集結、日光での決戦を諦め、会津へ向かうこととなり、凌霜隊も会津を目指した。凌霜隊は日向内記指揮の会津藩兵と共に横川宿(日光市)まで行ったところ、25日に今市方面で戦闘中(今市の戦い)との情報に接し、転進して高原宿まで行くが戦闘には参加せず、高原に駐屯する。
閏4月7日、凌霜隊は会津藩の指揮下に入り、以後高原宿、藤原宿の守備に就き、会津藩からは隊士に手当金が支給された。5月11日、会津藩小山田伝四郎の指揮下で、塩原宿の守備に当たることとなり、塩原に駐屯する。
8月22日、若松方面の戦況不利に伴い塩原から撤退することとなり、会津藩の命令により翌日にかけて塩原周辺の家屋を焼き払う。この際、約3ヶ月間世話になった塩原を焼く事は忍びないと、一部の寺社には放火せず、また、すぐに建て直しが出来るように、事前に主な建物を解体し建材を残したりした。
8月24日、横川宿に到着、会津藩兵はそのまま若松へ向かい、残った凌霜隊ら124名が横川で守備についた。翌25日、攻め寄せた新政府軍と戦闘となり、これを撃退するも、戦況悪化のため撤退することとなった。28日、大内宿に到着、翌早朝から新政府軍と戦闘になるが、会津側は敗北し、凌霜隊も大内峠に撤退した。30日未明、大内峠で戦闘となり、奮戦するものの敗北し撤退した。
9月1日から3日にかけて、関山宿で新政府軍と交戦するが、防ぎきれず撤退。退却時の混乱で離れ離れになったりしたが、次第に合流しつつ、若松城を攻囲する新政府軍の隙をついて、4日に若松城下に入り、秋月悌次郎宅を拠点とする。先行していた朝比奈隊長ら一部の隊員は既に入城していたため、6日、凌霜隊全員が若松城に入城し、日向内記の指揮下に入って白虎士中合同隊と共に西出丸の守備に就いた。その後、会津藩兵らと共に攻め寄せる新政府軍と激戦を繰り広げたが、明治元年(1868年)9月22日、会津藩が降伏するに至り、凌霜隊もこれに従って新政府軍に降伏し、城を出て猪苗代で謹慎した(会津戦争)。
戦後
明治元年10月12日、投降した凌霜隊員らは郡上藩預けと決し、郡上八幡へ護送されることとなった。 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破し、贄浦に上陸、11月17日、元凌霜隊員35名は郡上八幡城下に到着した。 藩では、元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した。赤谷揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが却下され続け、明治2年5月になって慈恩禅寺の住職らを中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。藩では当初、元隊員らを処刑するつもりであったが、9月、新政府の命令により自宅謹慎となり、翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ、赦免された。 しかし、罪人として処罰された元隊員達に対して周囲の態度は冷たく、元隊士らの多くは郡上八幡を離れた。※Wikipediaより
八幡城天守閣の裏手にある「凌霜の森」と名付けられた慰霊碑に、凌霜隊員四十五名の名前が刻まれている。
今回は下呂温泉から郡上八幡へ足を伸ばしてました。
街中は静かで人影もまばらでしたがとても趣深い町並みでした。
必要以上に観光地化されていないところが特に良かったです。
ちなみに遅めのお昼をコメダ珈琲でいただき帰路に向かいました。
コメント