5月6日に小田原城を訪ねました。
お昼には「漁港の駅TOTOCO小田原」で海鮮丼を堪能し小田原城に向かいました。
GWの最終日でお天気がちょっと微妙でしたので比較的空いていた感じでした。
小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高等学校がある場所)を詰の城としていた。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
※Wikipediaより
藤棚側からお城に入っていきました。お濠の蓮と石垣がきれいでした。
小田原城の案内図です。平山城ということで多少の坂はありますがゆっくり歩くにはちょうど良いかと思います。
小田原城の歴史が書かれています。
私的には大河ドラマなどでみた、豊臣方に城を明け渡すまでの流れが感慨深いです。
空から見た小田原城の様子。一夜城との位置関係がよく分かります。
豊臣秀吉の一夜城
豊臣秀吉の手による城が知られているが、いずれも全く一夜で作られたものではない。物語上では『絵本太閤記』出版以降に墨俣城が見られる。短期間で築城されたと見られる記録があるものに石垣山城がある。
石垣山城
※Wikipediaより
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる(『小田原北条記』巻九)。記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。後世の軍記物『小田原北条記』巻九では、「4月1日に、石垣山に兵を上げて陣屋を作り、矢倉を組み立て、その四方の壁面に杉原紙を張りまわした」ことで、一夜の内に「白壁の屋形」ができあがったと説明する。
この門を通ってお城の中心部に入ります。
門を抜けると広い公園があり、その奥に本丸があります。
右側にはお土産売り場や喫茶があり、キッチンカーもでていました。あちこちに座れる場所があり助かりました。
天守閣は拝観できますが今回はパス。
天守閣を右にして進むと下り坂の途中に「子ども遊園地」があります。昔は像がいた記憶があります。
子ども連れでなくても乗ってみたくなるミニSL。
そのまま坂を下りたところに「報徳二宮神社」があります。本殿まではすぐなのでお参りしてきました。
そのまま道なりに進むと天守閣のを下から見上げるような形で道が続きます。
思わず「ここから責めるのはきついな」と声が漏れました。
そのまま歩いて行くと藤棚の所に戻ります。
今回は小田原城を訪ねました。
北条氏の栄衰に思いをはせながらの散策はなかなか楽しいものでした。
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