中国史上屈指の動乱期である「三国志」の時代。その最後を締めくくり、およそ100年ぶりに天下統一を成し遂げたのが、魏の名門司馬一族の御曹司、司馬炎(武帝)である。しかし、彼が打ち立てた「西晋」という王朝が、統一からわずか数十年で崩壊の危機に瀕したことは意外に知られていない。前半生においては「寛恵にして仁厚」と評され、名君の器と期待された彼が、なぜ晩年には色欲と惰眠をむさぼる暗君へと転落し、国を滅亡の淵へと追いやったのか。史料に基づき、その栄光と影を追う。
非の打ち所のないプリンスと天下統一 司馬炎は、魏の実力者であった司馬昭と王元姫の長男として生まれた。祖父は孔明のライバルとして知られる司馬懿(仲達)である。彼は若くしてその才能を評価され、河内郡の「九品官人法」の評価において比較対象がいないほどの貴公子とされた。265年、父・司馬昭の死後に晋王の位を継ぐと、魏の元帝(曹奐)に禅譲を迫り、新王朝「晋(西晋)」を建国した。 即位当初の司馬炎は、民心を掴むための施策を行い、諸葛亮の子孫を取り立てるなど、礼教に基づいた国家建設を目指す名君であった。そして280年、大軍をもって呉を滅ぼし、ついに三国時代の争乱に終止符を打つ。
統一後の堕落:一万人の後宮と羊車 しかし、強敵がいなくなったことで司馬炎の精神は緩み、政治への情熱は急速に失われていく。彼は統一後、軍縮を行う一方で、個人的な享楽に溺れるようになった。特に有名なのが、その好色ぶりである。 司馬炎は呉の皇帝・孫晧の後宮にいた5000人を自らの後宮に吸収し、その数は合計で1万人近くに達したという。あまりに人数が多いため、誰と夜を過ごすか決められず、彼は羊に引かせた車に乗って後宮を回った。羊が足を止めた場所の女性と一夜を共にするという奇妙なルールである。これを知った女性たちは、羊が好む「竹の葉」を戸口に挿し、「塩」を盛って羊を誘引しようとした。これが現在の飲食店などで見られる「盛り塩」の起源とも言われている。 また、皇帝の堕落は臣下にも伝染した。天下が泰平になると、貴族たちの間では異常な「贅沢競争」が流行した。特に外戚の王愷と大富豪の石崇の対立は有名である。王愷が貴重な珊瑚樹を自慢すれば、石崇は鉄の如意でそれを叩き割り、より立派な珊瑚をいくつも並べて見せ返したという逸話が『世説新語』に残されている。皇帝である司馬炎自身も、母方の親戚である王愷に秘宝を与えるなどしてこの不毛な競争に加担しており、西晋の社会風紀は極限まで乱れていた。
致命的な誤算:後継者問題と封建制 司馬炎の最大の失策は、後継者選びにあった。彼が皇太子に選んだのは、長男の司馬衷(後の恵帝)であったが、彼は同時代の人々から「暗愚」と評されるほどの人物であった。飢饉で民が苦しんでいると聞いた際に「米がないなら肉粥を食べればいいではないか(何ぞ肉糜を食わざるや)」と発言したエピソードは、彼の現実感覚の欠如を象徴するものとして知られている。 当時、司馬炎の同母弟である斉王・司馬攸は聡明で人望が厚く、多くの重臣が彼を次期皇帝に推していた。しかし、司馬炎は肉親の情や孫への期待からこれを退け、司馬攸を任地へ追いやって憤死させてしまう。 さらに司馬炎は、魏が皇族の力を削ぎすぎたために司馬氏の簒奪を許したという教訓から、一族の諸王に強大な兵権と領土を与えて各地に封じた。有能な皇帝が統御している間は機能したが、暗愚な恵帝が即位し、タガが外れれば、これら武力を持った皇族同士が争い始めるのは必然であった。
八王の乱から永嘉の乱、そして滅亡へ 290年に司馬炎が崩御し恵帝が即位すると、事態は悪化の一途をたどる。当初は外戚の楊駿が権力を握ったが、恵帝の皇后である賈南風(賈皇后)がクーデターを起こし、楊氏一族を惨殺した。賈南風は非常に嫉妬深く権力欲の強い女性で、皇太子の司馬遹をも殺害し、専横を極めた。 これに反発した皇族たちが次々と挙兵し、血で血を洗う内乱「八王の乱」が勃発する。趙王・司馬倫、斉王・司馬冏、長沙王・司馬乂、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒、東海王・司馬越ら8人の王が入り乱れ、都の洛陽は戦場と化した。 この内乱で国力が疲弊しきった隙を突き、中国内陸部に定住していた異民族が蜂起する。匈奴の劉淵は304年に自立して「漢(後の前趙)」を建国。これが「永嘉の乱」の始まりである。八王の乱の最終的な勝者となった東海王・司馬越も病死し、311年、石勒率いる軍勢によって西晋の主力軍は壊滅。洛陽は陥落し、懐帝は捕らえられ処刑された。その後、長安で即位した愍帝も316年に降伏し、西晋はわずか50年あまりで滅亡した。
結論 司馬炎は三国時代の戦乱を終わらせた偉大な統一者であったが、その晩年の驕りと「創業は易く守成は難し」を地で行くような政治的怠慢が、皮肉にも次の大乱世「五胡十六国時代」の扉を開いてしまった。一万人の美女を囲った「羊車」の逸話は、平和ボケした権力者の末路と、国家崩壊への序章を象徴するエピソードとして、今も歴史の教訓として語り継がれている。

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