【徹底解説】甲府城の歴史と魅力:天下の名城が今、450年の時を経てよみがえる

山梨県甲府市。JR甲府駅から徒歩わずか5分の場所に、かつて東日本最大級の威容を誇った城跡があります。その名は甲府城(別名:舞鶴城)。武田氏の滅亡後、豊臣秀吉の命によって築かれたこの城は、単なる地方の城ではなく、日本の城郭史上極めて重要な価値を持つ「天下の名城」でした。

目次

1. 武田の魂を継ぎ、豊臣が築いた「要の城」

甲府城の歴史は、1582年の武田氏滅亡から始まります。本能寺の変を経て甲斐国を支配した徳川家康が関東へ移封されると、代わって入国した豊臣秀吉の親族や家臣(羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長父子ら)によって築城が進められました。

この城の最大の目的は、関東の徳川家康を牽制することにありました。そのため、当時の最先端技術である「豊臣系城郭」のスタイルが取り入れられ、壮大な石垣と櫓が並び立つ、まさに西側への備えとしての重要拠点となったのです。

2. 「野面積み」に刻まれた戦国時代の息吹

甲府城の最大の見どころは、何と言っても約450年前の姿を色濃く残す**「野面積み(のづらづみ)」の石垣**です。 自然石をほとんど加工せずに積み上げるこの技法は、豪快さと繊細な迫力を併せ持っています。特に稲荷曲輪東側にある、高さ約20メートルの「矩返し(かねがえし)」勾配の高石垣は、東日本最大級を誇ります。

石垣をよく観察すると、当時の痕跡を見つけることができます:

矢穴(やあな):石を割るために開けられた四角い穴。築城期のものは約12cmと大きく、時代が下るにつれて小さくなります。

線刻画(せんこくが):石の表面に刻まれた星や魚、鳥の絵。工事の安全を祈ったものと言われています。

また、県庁付近の石垣には、古い野面積みの上に、明治期以降の「落とし積み」が乗っている箇所があり、城が近代化の中で姿を変えていった歴史を物語っています。

3. 日本第6位の規模!「幻の天守」の正体

長年、甲府城に天守閣があったかどうかについては議論がありましたが、近年の調査で巨大な「鯱瓦(しゃちがわら)」の破片が出土し、豪華な天守が存在したことが歴史的に証明されました

広島大学の三浦正幸教授の研究によれば、甲府城の天守台は日本で3番目に「歪んで」おり、それが逆に抜群の古さと重要性を示しています。その規模は11間×8間(約22m×16m)と、関ヶ原以前の日本では、豊臣家や五大老の城に次ぐ全国第6位の超巨大天守であったと推定されています。構造は四重五階、地下一階の「望楼型天守」。もし現存していれば、間違いなく国宝級の価値を持つものでした。

4. 柳沢吉保と「甲府の花盛り」

江戸時代に入ると、5代将軍徳川綱吉の側用人、柳沢吉保が城主となります。吉保とその子・吉里の20年間、甲府は「大名の城」として最も整備され、城下町は空前の繁栄を迎えました。その賑わいは「是ぞ甲府の花盛り」と詠われるほどで、能舞台での興行や学問・文化の発展など、甲府の黄金時代を築きました。

5. 現代、そして未来へつなぐ整備計画

明治以降、中央線の敷設や空襲などにより城郭の一部は失われましたが、現在は「舞鶴城公園」として親しまれています。2004年には稲荷櫓、2007年には山手御門が木造復元され、当時の威容を取り戻しつつあります。

さらに山梨県では、2022年度から15年間にわたる**「整備基本計画」**を推進しています。

内堀の復元:埋め立てられた堀を顕在化させ、城本来の景観を体感できる環境を整えます。

愛宕山石切場跡の公開:城に石材を供給した貴重な遺跡を安全に見学できるよう整備します。

ガイダンス機能の強化:展示施設を統一コンセプトで再編し、より分かりやすく価値を伝えます。

結びに

甲府城は、戦国・豊臣・徳川・そして現代と、450年の日本の歩みをその石垣に刻み込んできました。天守台から望む富士山の絶景は、今も昔も変わらず訪れる人々を魅了します。 歴史の重みを感じながら、名城の「本物」の価値を共有しに、ぜひ甲府の街を歩いてみてください。

歴史というパズルを解くように、一石一石の重なりを見つめるとき、そこには先人たちの情熱が今も息づいています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

電子機器の試作会社、老舗出版会社、通信系IT企業を経由して、現在は兼業ブロガー。SDGsに貢献しつつ、生活の中で課題をもって購入した商品のレビュー、プチ旅行の紹介、忘れつつある記憶の記録など、おおむね個人の趣味を綴ったブログにしたいと思います。

コメント

コメントする

目次