はじめに:SFを地で行く生命体
想像してみてください。自分の脳が失われ、数日後に新しい脳が成長したとき、以前の自分の記憶がすべて戻っているという事態を。淡水に住む小さな扁形動物「プラナリア」にとって、これは空想ではなく現実です。プラナリアは比類なき再生能力を持つだけでなく、脳を一度完全に失っても記憶を維持できるという、生物学の常識を覆す謎を秘めています。
1/279の断片から蘇る「不死」の秘密
プラナリアの最大の武器は、全身の至る所に存在する**「ネオブラスト(新生細胞)」と呼ばれる幹細胞です。この細胞は、体内の細胞の最大30%を占める成体多能性幹細胞であり、筋肉、腸、感覚器官、そして脳を含むあらゆる組織へと分化することができます。この驚異的な幹細胞システムにより、プラナリアは体全体のわずか279分の1の断片**からでも、数週間で完全に元の姿へと再生することが可能です。
脳がないのに「覚えている」という事実
2013年、タフツ大学のタル・ショムラットとマイケル・レヴィンは、自動化された訓練システムを用いて、プラナリアの長期記憶に関する画期的な実験を行いました。彼らはナミウズムシ(Dugesia japonica)に対し、特定の環境因子(凹凸のある表面など)と餌を結びつける訓練を行いました。
その後、彼らはプラナリアの頭部を外科的に切除し、脳が完全にない状態を作り出しました。2週間後、新しい頭部が再生した個体に対し、再度同じテストを行ったところ、未経験の個体よりもはるかに速く条件付けられた行動を再獲得したのです。これは、脳が失われても、記憶の痕跡が体のどこかに保持されていたことを明確に示しています。
同様の現象は、日本の高校生による研究でも確認されています。大阪府立高津高校の生物班は、プラナリアが嫌う「赤い光」の下に餌があることを学習させました。結果として、頭部を切断・再生した個体も、再び赤い光の下へと餌を探しに行く行動を見せ、「記憶は脳以外の部位にもある」という結論を導き出しました。
記憶のありか:RNAか、それとも神経ネットワークか
この発見は、「記憶は脳にのみ存在する」という前提を揺るがしています。かつて1960年代には、ジェームズ・マコーネルが、学習したプラナリアを別の個体に食べさせると記憶が転移するという**「記憶RNA説」**を唱えました。この実験は再現性が乏しく、当時は批判も浴びましたが、現代の研究では、記憶が末梢神経系や細胞外のシステム、あるいは遺伝子ネットワークに分散してコード化されている可能性が真剣に議論されています。
兵庫県立神戸高校の研究チームも、電気刺激による「固定」反応の学習を通じて、頭部以外の組織に記憶が存在する可能性を指摘しています。
再生を操る「司令塔」の発見
プラナリアがいかにして「正しい形」に再生するかという点でも、大きな進展がありました。京都大学の阿形清和教授らは、脳の形成範囲を頭部に限定する**「nou-darake(ノウダラケ)」遺伝子**を発見しました。この遺伝子が機能しないと、プラナリアの全身が脳だらけになってしまいます。
さらに、2025年の最新研究では、「腸」が司令塔となり、離れた場所にある幹細胞の位置や働きをコントロールして再生を促している可能性が示されました。これは、幹細胞が周囲の細胞から直接指示を受けるという従来の「幹細胞ニッチ」の常識を覆す発見です。
再生医療への希望と未来
プラナリアの研究は、単なる生物学的興味に留まりません。プラナリアが示す「テロメアの維持による不老性」や「脳の完全再生」のメカニズムは、人間の老化防止や、アルツハイマー病などの変性脳疾患に対する再生医療の大きなヒントとなります。実際に、プラナリアの器官形成ロジックをマウスのES細胞に応用し、シャーレ内で脳組織を形成する試みも始まっています。
結びに
プラナリアにとって、身体は単なる肉体ではなく、情報を保存する分散型のハードディスクのような役割を果たしているのかもしれません。脳はそこから情報を引き出し、出力するためのデバイスに過ぎないという考え方も成り立ちます。
この不思議な現象を理解するために、**「古い家を建て直す際、設計図(遺伝子)だけでなく、以前の生活の記録(記憶)が土地そのものに刻まれており、新しい建物が完成した瞬間に元の生活が再開される」**といった光景を想像してみてください。この小さな生き物は、私たちが「自己」や「記憶」をどう定義すべきか、今も問い続けているのです。
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出典:PubMed (2013), Wikipedia “Memory transfer”, Forbes JAPAN (2026), 科学研究費助成事業報告書 (阿形清和), 高津高校/神戸高校 研究論文, ナゾロジー (2025), 株式会社MASUKO調査まとめ 他

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