まいどはやです。
湯島天満宮(湯島天神)にお参りしてきました。昨年秋にお参りし、知人の受験祈願をしたのですが、そのお礼参り。
ここは上野か御徒町から歩いても行ける距離ですが、日頃クルマで通ることが多く、今日もクルマで坂道を上り、通り沿いの有料駐車場に止めました。
平日の夕方近くの参拝のため境内に人はまばらでしたが、都会とは思えない空間に身を置いている感じがします。
コンパクトなエリアに撫牛や筆塚、包丁塚、世界の王貞治さんの「努力」の碑などもあり、できればゆっくりと隅々まで散策していただきたいと思います。
お礼の後、屋台でサツマイモのチップスを買って帰路につきました。
湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。
明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。
元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。
湯島天満宮の由緒書きが境内に入ってすぐ左にあります。
料理包丁研鑽の包丁塚。「報徳研鑽之碑」とあります。
天神信仰と撫牛
稲荷神社では狐、八幡宮では鳩が神使として聖なる鳥獣とされているが、菅原道真を祭神とする天満宮では牛が聖獣とされ、境内に臥(ふ)した牛の像が安置されていることが多い。牛は菅原道真の乗り物と考えられることも多く、各地に「牛乗り天神」の人形が伝わる。また、撫牛には、天神の神紋である梅花紋が刻される像も少なくない。
農耕神や雷神として祀られてきた天神が道真の御霊と結びつき、その一方で、農耕のなかで大切にされ、天の祟りを祓う獣でもあった牛[注釈 5]と天神信仰とが結びついたことにより、牛が天神の使いと考えられるようになったものと考えられる。
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