まいどはやです。
正月早々に岡崎に行ってきました。
珍しく家族で目的地が一致しまして、「岡崎城」。
でも、面白いもので目的は全然違うんですよ。
私は今年の大河ドラマの「どうする家康」にまつわる興味でありまして、一方で若い者は「東海オンエア」にまつわる興味でありました。
まぁ。いいではありませんか。仲良く同じ目的地に行けるんですから。
ということで、岡崎城周辺を少しご紹介します。
岡崎公園 (おかざきこうえん)は、愛知県岡崎市にある公立の都市公園(歴史公園)である。
名鉄名古屋本線東岡崎駅の西方、岡崎城を中心とした歴史公園。春は桜の名所として知られる。
日本さくら名所100選に選定されている。夏は花火大会で賑わう。
幹線道路に「岡崎公園」の表示板が出てはいるのですが、川沿いの道から細い一方通行のような道を曲がるとは思わず外周を一周してしまいました。駐車場への道が少し分かりづらいかもしれません。
駐車場はそこそこの大きさではありましたが、大河ドラマが始まって来場者が多くなるとキャパ的には不安ですね。
下の写真の右側に駐車場があります。
この広い更地は何でしょう?
「どうした家康」の登りがあちこちにはためいていました。
行ったのは2023年1月4日。
1月21日から大河ドラマ館がオープンします。
大河ドラマ館(岡崎)の情報こちらから。
改修リニューアルなどの情報があちこちに見られました。
下の写真は駐車場から本丸方面(大河ドラマ館方面)へ向かう経路のものです。
緩い上り坂を少し行くと食事処があります。
その反対側にも食事処があり、スナック類が買えます。
さらに坂が急になります。坂道の左側にお城らしい構造物が見えてきます。
ここは「清海堀」と言うそうです。
登り切ったところを左に行くと、芭蕉の句碑がありました。
このあたりが岡崎城の本丸のようです。
岡崎城は徳川家康が生まれたところです。
岡崎城(おかざきじょう)は、三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。
戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) – 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。
1959年(昭和34年)に天守が復興された。
観光地にある記念撮影用のパネル。
家康が生まれて幼少期を過ごしたと言うことで、「竹千代」(家康の幼名)の名があちこちに見られます。
岡崎城は龍城と呼ばれていましたが、「岡崎観光きらり百選」に選ばれています。
写真の正面が龍城神社。左奥に本丸が見えます。
龍城神社(たつきじんじゃ)は、愛知県岡崎市康生町にある神社。岡崎城の跡地に鎮座し、東照宮の一つである。
起源と歴史
1452年(宝徳4年)または1455年(康正元年): 社伝によると、三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたという。以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという。
1543年(天文12年): 岡崎城で徳川家康が誕生した際にも金色の龍が現れたという。
1624年~1643年(寛永年間): 徳川家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀る。
1766年(明和3年): 岡崎藩主本多忠粛により東照宮は岡崎城三の丸に遷座。本丸には本多忠勝を祭神(映世大明神)とする映世神社が創建される。
1876年(明治9年): 東照宮を岡崎城本丸に遷座、映世神社と合祀して龍城神社に改称する。社殿が造営される。
1880年(明治13年): 岡崎東照宮に改称する。
1912年(大正元年): 再び龍城神社に改称。
1915年(大正3年): 県社となる。
東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。
沿革
徳川家康は今際の際に金地院崇伝・南光坊天海・本多正純を呼び、次のように遺言した。久能山に納め、御法會を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野國日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。
— 徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)
元和2年 (1616) 4月17日、家康は駿府城で薨去。柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月に久能山に東照社(現久能山東照宮)を創建した。これに伴い朝廷は翌元和3年 (1617) 2月21日、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに神格化された家康本人に対しても同年3月9日正一位を贈位している。幕府は日光にも建設を進め、家康薨去の一周忌にあたる同年4月17日に遷座祭を挙行、ここに二つの東照大権現が並び立つことになった。しかしその後も各地の徳川・松平一門の大名家が独自の東照社を望み、また三代将軍徳川家光が諸大名に造営を勧めたこともあって、譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名が競って東照社を建て、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている)。
正保2年(1645)に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と号するようになった。
しかし明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社となっている。
これらの東照宮のうち、本宮の日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」と称す東照宮は多いが、規模・華麗さで劣る南禅寺塔頭金地院東照宮が幕府の正史に遺言が残り家康の遺髪及び持念佛を祀っている。
下の写真は神馬の像です。
神馬(しんめ/じんめ、かみうま)は、神が騎乗する馬として神聖視された馬である。日本の神社に奉献され、あるいは祭事の際に登場する馬を指す。馬の種類に特に決まりはないが、一般的に白馬を重んじる。
奉納された神馬。競走馬を引退したサラブレッドが、神馬として奉納されている(山梨県富士吉田市 冨士山下宮小室浅間神社)
豊受大神宮(伊勢神宮の外宮)にある御厩。神馬「丘昭号(おかあき)」
概要金属製の神馬像(香川縣護國神社)
木製の神馬像(穂高神社)
奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがある。奉納者は一般の民間人から皇族まで様々である。小規模な神社ではその世話などが重荷となること、また高価であり献納する側にとっても大きな負担となることから、絵馬などに置き換わっていった。また、等身大の馬の像をもって神馬とすることも多い。
『延喜式』3巻26条では、雨を願うときには黒毛の馬を、晴れを願うときには白毛馬をそれぞれ献納するという記述がある。中世の武士は戦争での勝利を祈願するために神馬を奉納した。古くからの神社の中に「神馬舎」・「神厩舎」が馬の存在如何を問わずに設置されている所があるのは、神馬の風習の名残である。
神社境内から乙川方面を見たもの。
徳川家康の遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
家康公遺言
わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、
されども将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、たれにても其の任に変らるべし、
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし元和2(1616)年4月17日 家康公甍75歳於駿府城
大樹寺57世 宏天 謹書
岡崎城の歴史についても詳しく掲示されています。
龍城神社から本丸横を抜けていくと下り坂です。
降りたところは広く開けており、様々な施設があります。
下の写真は「天下人家康公 出世ベンチ」です。
本丸周辺は石垣や堀が自然と溶け込んで配置されており、とても街中とは思えない趣があります。
お土産の売店です。「観光みやげ店 おかざき屋」、1月18日にプレオープンとのこと。
家康公の威厳のある像。
「家康公生誕450年祭」に作られた騎馬像。若き元康公(徳川家康公)の騎馬像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。
左に「岡崎公園時計塔」、右奥が「三河武士のやかた 家康館」。
下の写真が「三河武士のやかた 家康館」です。「大河ドラマ館」として改修中です。
「本多平八郎忠勝公像」です。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
「しかみ像」です。浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いをいどみ、負け戦となって多くの家臣を失った家康公が、自戒の念を忘れることのないように描かせた肖像画を元に製作された石像です。
家康公って、身長159cm?
帰りは駐車場手前で、五平餅とみたらし団子を頂きました。
五平餅を頂いたのは、東海オンエアのメンバーが五平餅が好きだと言うことらしい?
駐車場まで戻ってきました。料金は下の写真のとおり。
下の写真は、市内の小さな公園で発見したマンホールのふた。
東海オンエアのゆめまるとかいてある。
東海オンエア(とうかいオンエア、英語:Tokai On Air)は、日本の愛知県岡崎市に拠点を置く、6人組YouTuberグループ。メンバーはてつや、しばゆー、りょう、としみつ、ゆめまる、虫眼鏡。2013年にYouTubeより動画投稿を中心とする活動を開始。2017年からUUUMに所属している。YouTubeチャンネルとして、メインの「東海オンエア」、サブの「東海オンエアの控え室」、及び各メンバーの個人チャンネルが存在する。
概要
メンバー全員が愛知県出身者ということから「東海オンエア」と命名。5人の同級生とてつやとバイト仲間だった1つ年上の虫眼鏡の6名で活動している。2022年1月現在チャンネルで公開されている一番古い動画は2013年10月15日に投稿された「鼻からミルクティーを一気飲み」で、約200万回の再生がある。愛知県岡崎市の観光伝道師に任命されている[ネタ動画やドッキリなどをテーマに動画投稿を始める。リーダーのてつやによると、“子供がやりたくてもやれないことを代わりにやる”というのが東海オンエアだと語っている。また、メンバーの虫眼鏡によると、動画投稿を始めた理由としては「自分達のやっている悪ふざけを色々な人に見てもらえたら面白いのでは」という気持ちがあったという。活動初期から過激な内容に果敢にチャレンジしており、グループメンバーは長期にわたる過酷な罰ゲームを課す事を「十字架」と呼ぶ。例として令和が終わるまでシュークリームを食べられない (てつや)、1ヶ月間ふんどし生活 (虫眼鏡)や、過去には3ヶ月間ファラオの恰好をする (りょう)、1ヶ月間語尾が「ごわす」(ゆめまる)等といったものがあり、その絶対的な執行はプライベートの時間にまで及ぶ。体を張った企画をやらせたらYouTuber界一との声も高い。
岡崎。「大河ドラマ館」がオープンしたらまた行ってみたいと思います。
コメント