開運になるか? 金のしゃちほこを見に名古屋城へ!

まいどはやです。

名古屋城に行ってきましたので記事にしてみたいと思います。

名古屋城に行ってきた理由としては、NHK大河ドラマ「どうする家康」にちなんで、訪れてみたかったからです。

名古屋城は、徳川家康が豊臣方の大名らに命じて築いた城です。尾張徳川家の居城として知られる名古屋城ですが、特別史跡に指定されています。歴史を読み解くと織田信長ともゆかりの深い城なんですね。

名古屋城内には、城内を歩いて訪れることができる大殿、東殿、南殿、西殿などがあり、歴史を感じることができます。また、城内を歩いていると、投石器から矢破りの砲まで、当時の武器なども展示されています。

名古屋城周辺には、名古屋市内から徒歩圏内にある、名古屋城公園もあります。名古屋城公園内には、散発的に広がる緑地や散歩道、緑に囲まれた広場もあります。また、名古屋城公園内には子どもから大人まで楽しめる公園施設もあります。

名古屋城は、歴史を感じることができる観光スポットとして、多くの人が訪れています。是非、名古屋城を訪れて、徳川家康の時代の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

名古屋城(なごやじょう)は、日本の城のひとつ。尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城した。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城だった。

大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭では「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金鯱は城だけでなく名古屋の街の象徴である。本丸御殿は二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と評価されていた。

大小天守と櫓や門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが、1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している)。戦後に天守などが鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園の南園として整備されている。

現在、名古屋城の全体整備計画があり、整備計画では史跡としての名古屋城の保存活用と価値を高めたいとしている。2019年現在、計画されている整備計画では、本丸御殿の復元整備、天守閣の木造復元の整備、東北隅櫓の復元整備、本丸表一之門と本丸東一之門と二之丸門の復元、馬出の復元、本丸多聞櫓の復元、二之丸庭園の保存整備と二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、大手門・東門と二之丸の櫓の復元整備、展示収蔵施設の整備、石垣補修などである。

戦国時代

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。

1538年(天文七年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。

江戸時代

現代にみる清須越しの距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月

大天守石垣内で、「加藤肥後守内小代下総」(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))と刻まれた石
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めた。この名古屋への移転には木曽川や庄内川を外堀として利用する防衛目的もあったと考えられ、移転決定と前後して木曽川には「御囲堤」、庄内川には「御囲禍堤」が建造されるなど治水工事が進められた。1610年(慶長15年)閏2月、未だ大阪城には豊臣秀頼が居る中、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始された。

※Wikipediaより

名古屋城入り口にある堂々たる碑。圧倒されます。

「特別史跡 名古屋城」の看板が目の前に立ちました。ここは、歴史ある場所であり、徳川家康が豊臣方の大名らに命じて築いた城です。名古屋城は、歴史的に重要な場所であり、「特別史跡」として指定されています。看板はその栄華を物語っています。これを見て、名古屋城の栄華を感じました。歴史が生きているということがよくわかります。名古屋城を訪れることで、当時の栄華を体感することができます。

城門脇の看板です。

ちょうど「名古屋城 冬まつり」開催中でした。「名古屋城 冬まつり」は名古屋城を舞台にした冬フェスティバルで、毎年多くの人が訪れます。名古屋城の周りは様々な演出がされています。

名古屋城の城門は、歴史的にも重要な位置を占めています。この大きな石は、どれも確かな存在感があります。名古屋城城門はまさに守りの象徴といった感じがします。

名古屋城正門(旧 榎多門)です。

ここで入場料を払ってチケットを購入します。

名古屋城です。素晴らしいの一言。

名古屋城は、徳川家康によって築かれた城で、栄華を誇る歴史を持つ場所です。特別史跡にも指定されています。また、冬まつりが開催されていたこともあり、多くの観光客が訪れていました。城門も大きな石でできており、素晴らしい景色が楽しめました。また、金の鯱も栄華を誇っており、名古屋城を訪れた際には是非とも見学すべきものです。

【西の丸御蔵城宝館】

名古屋城には、西の丸御蔵城宝館という貴重な建造物があります。この西の丸御蔵城宝館は、明治時代に徳川家康の一族が所有していた貴重な財宝が展示されています。この財宝は、歴史的な価値を持つものから、美術的な魅力を持ったものまで、幅広いジャンルのものが展示されています。

また、西の丸御蔵城宝館は、江戸時代の日本の文化や、徳川家康の一族の生活に関する歴史的な情報も提供されています。歴史と文化を学んでみてはいかがでしょうか。

名古屋城には「名古屋城新聞」というものがあります。この新聞には、名古屋城に関連する最新情報やイベント情報、城内で見られる景色などの情報が掲載されています。時節に応じた特集記事も出ています。

場内案内図が丁寧に掲示されています。

名古屋城は、16世紀に創建されたとされており、徳川家康によって築かれました。約400年の歴史を持ち、戦国時代から江戸時代にかけて、名古屋を治める象徴的存在として重要な役割を果たしました。

徳川家康は、1603年から1651年にかけて活躍した日本の武将です。

名古屋城と徳川家康は、日本の歴史に深く刻まれている重要な存在です。名古屋城は、歴史的建造物としての価値を持ちながら、現在も観光地として訪れる人々を魅了しています。

徳川家康は、日本の歴史上最も影響力を持った武将として、今なお敬愛されています。名古屋城と徳川家康は、日本の歴史と文化を理解する上で重要なヒストリースポットとなっています。

名古屋城が徳川家康にとってどれだけ必要な城であったのか、威信をかける意味などが解説されています。

武力の象徴だけでなく、文化がどう花開いたのかが、その必要性とともに解説されています。

明治維新以後、廃城の危機から国のシンボルとなるまでの解説です。

銅鯱というのもあったんですね。

【名古屋城本丸を望む】

やっぱり名古屋城は金の鯱ですね。こういうときは望遠レンズが欲しいわぁ。

今回は「どうする家康」にちなんで名古屋城をご紹介しました。

そもそも名古屋自体をゆっくり訪れたことがなかったのですが、奥深い街なんだなぁと大変興味を持ちました。







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この記事を書いた人

電子機器の試作会社、老舗出版会社、通信系IT企業を経由して、現在は兼業ブロガー。SDGsに貢献しつつ、生活の中で課題をもって購入した商品のレビュー、プチ旅行の紹介、忘れつつある記憶の記録など、おおむね個人の趣味を綴ったブログにしたいと思います。

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