【鎌倉殿の13人】源頼朝墓所・北条義時墓所 ~二つの法華堂。AR最新技術で仮想復元~

まいどはやです。

前回は鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にある、「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」に行った記事を書きました。

この記事はその続きです。

これまで本当に何度も鶴岡八幡宮を訪ねており、半世紀前の遠足でも周辺を歩いていたはずなのですが、見たいと思う気持ちと、行かされている気持ちの違いなのか、その周辺についてはあまり記憶に残っていませんでした。

大河ドラマ館の出口に周辺マップが出ていたので、周辺散策をとおもい、まずは源頼朝の墓地へお参りに行きました。

「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」から、一度参道へ戻っていきます。

参道正面から舞殿を通した眺め。舞殿へ向かって歩きます。

舞殿の右方向へ進みます。

舞殿を斜めから望む。実際はちゃんとお参りしてから周辺散策しましたよ。

しばらく行くと若宮があります。

若宮(神社)
若宮社、若宮神社ともいう。基本的には本宮の摂・末社として主祭神の御子(みこ)を神に祀(まつ)る社(やしろ)をいうが、ときに本宮に対してその主神の分霊を勧請(かんじょう)した社を若宮といい、また非業の死を遂げた怨霊(おんりょう)を慰め鎮めるために祀った社を若宮と称する例も少なくない。若宮八幡(はちまん)は仁徳(にんとく)天皇、春日(かすが)若宮は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)、大神(おおみわ)神社の若宮は太田田根子命(おおたたねこのみこと)、梅宮神社の若宮は橘諸兄(たちばなのもろえ)と、いずれも主祭神の御子を祀るが、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)はもと源頼義(よりよし)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を由比郷(ゆいごう)に祀った鶴岡若宮であり、鹿児島市有村(ありむら)町の若宮神社は島津氏が鶴岡八幡を勧請したものである。また鹿児島県出水(いずみ)市野田町の若宮神社は、文武に優れた武将で藩主に謀殺された島津忠兼(ただかね)の祟(たた)りを鎮めるための社であり、愛媛県宇和島(うわじま)市の和霊(われい)神社も藩主に殺された功臣を祀る社で、同県内ではこの種の社を若宮社という。

(コトバンクHPより)

さらに進むと鶴亀石が右側にあります。

さらに進むと白旗神社があります。お参りして右側に進むと境内を出ます。

境内を出たところ。この左側を進みます。若宮大路や境内参道に対して横方向(90度)の方向に進んでいきます。

地元の皆さんが案内掲示をあちこちにしてくださっています。

中央の白旗神社は鶴岡八幡宮境内にあった白旗神社とは違います。

大倉幕府後を経由して源頼朝の墓所へ向かいます。

大倉御所(おおくらごしょ)、または大蔵御所・大倉幕府(おおくらばくふ[2])は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった源頼朝の邸宅。1180年(治承4年)から1219年(承久元年)までの39年間、あるいは1225年(嘉禄元年)までの45年間[2]、鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所であった。

(Wikipediaより)

大倉幕府後です。現在は小学校になっていました。手作りの掲示をみてほっこりしました。

ここを左に折れて進みます。

「この道あってるの」と思った頃に案内板も出ているので安心です。

法華堂直前の公園(進行方向左側)に案内板が。

すぐ目の前に法華堂があり、登っていくと墓所です。

同じく公園の掲示板です。

とても勉強になります。これも公園の掲示物です。

ここが法華堂です。

正面に回ると白旗神社とあります。

法華堂の反対側に顕彰碑があります。

顕彰碑の脇には「源頼朝の墓」と案内板があります。正面の階段を上っていきます。

「源頼朝の墓」です。

鎌倉幕府滅亡後に紆余曲折があったのですね。

「頼朝の墓」から東に行ったところ(法華堂の登り口まで戻って、少し東に歩いていくと登り口がありました。)に北条義時の墓がありました。

法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
 二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。

※文化遺産オンラインHPより

ARなのね。最先端技術ですね。

ここにもともとの法華堂があったそうです。

3月の半ばに訪ねたのですが、天気の良い日で、少し汗ばみました。

今回は、「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」を経由して、ゆかりの周辺散策をしてみました。

まだまだ鎌倉は奥深いと感じました。





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この記事を書いた人

電子機器の試作会社、老舗出版会社、通信系IT企業を経由して、現在は兼業ブロガー。SDGsに貢献しつつ、生活の中で課題をもって購入した商品のレビュー、プチ旅行の紹介、忘れつつある記憶の記録など、おおむね個人の趣味を綴ったブログにしたいと思います。

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