カラン、カラン……。 重厚な扉が開く音、グラスの中で美しく削られた氷がぶつかる涼やかな音、そして遠くで響くジャズの調べ。かつて土曜日の夕方5時になると、多くの日本人がラジオの前で耳をすませ、東京・元麻布にあるとされる一軒のイタリアンレストランを目指しました。
その店の名は、「AVANTI(アヴァンティ)」。 1992年4月から2013年3月まで、21年間にわたりTOKYO FM系列で放送されたこの番組は、単なるトーク番組の枠を超え、リスナーを架空(あるいは実在するかもしれない)のバーへと誘う極上のエンターテインメントでした。今回は、今なお多くのファンの心に残り続けるこの「伝説のラジオ」について、その魅力と知られざる裏側を紐解いていきます。
「東京一の日常会話」への招待状
番組のスタイルは独特でした。「メタドラマ型のトーク番組」とも呼ばれるその構成は、元麻布の仙台坂上にあるイタリアンレストランのウェイティング・バーで、客たちが交わす会話を、常連客である「紳士」と一緒に盗み聞きするというものです。 この番組の最大の発明は、ゲスト同士の会話に台本がなく、お酒を片手に自然な会話を楽しんでいる様子をそのまま放送した点にあります。作家、学者、芸能人、企業の広報担当者など、毎週異なるジャンルのゲストが登場し、彼らの会話から漏れ聞こえる専門的な知識や業界の裏話は、まさにキャッチコピー通りの「東京一の日常会話」でした。
番組の案内役を務めたのは、慶應義塾大学出身で女子大の文学部教授という設定の「謎の紳士」です。演じていたのは団しん也さん。彼がバーテンダーに「ウイスキー、いつもの」と注文するところから物語は始まります。ちなみに、この「いつもの」とは、ウイスキーのハーフロック、あるいは彼が敬愛するディーン・マーティンが好んだカクテル「ジン・アンド・イット(ジンとベルモット)」のことでした。
聴覚を刺激する「ASMR」の先駆け
AVANTIの魅力は、その徹底した音の演出にありました。 カクテルをシェイクする音、ウイスキーがトクトクと注がれる音、店内のざわめき。これらは現代で言うところの「ASMR」的な心地よさに満ちていました。当時のリスナーの中には、まだお酒の味を知らない子供たちも多く含まれていました。彼らは、車の後部座席や自室のラジオから流れる「大人の雑音」に耳を傾け、まだ見ぬバーの世界に憧れを抱いたのです。 番組内で流れるサントリーのCMさえも、ウイスキーへの欲望を駆り立てる極上のサウンドとして機能していました。お酒が飲めないリスナーでさえ、その雰囲気に酔いしれることができたのです。
伝説のバーテンダーたち
21年の歴史の中で、カウンターを守ったバーテンダーたちの存在も忘れてはなりません。 初代バーテンダーのジェイク(ジェイク・H・コンセプション)は、イタリア系アメリカ人でサックスの腕前はプロ級という設定でした。実際、演じていたご本人も有名なサックス奏者であり、松田聖子の「SWEET MEMORIES」の間奏ソロを吹いたのは彼自身であるというエピソードが番組内でも明かされています。ジェイクは2002年に帰国するまで、渋い声とサックスの音色で店を彩りました。
二代目を引き継いだのは、スタン(スタン・マーロウ)。演じていたのはグレゴリー・スターさんで、彼は映画雑誌の元編集長という経歴の持ち主でした。スタンの時代には、彼が作るカクテルを目当てに多くの客が訪れ、番組からカクテルブックが出版されるほどの人気を博しました。 彼らの作るカクテルの音と、BGMとして流れるフランク・シナトラやボサノヴァの名曲たちが、土曜の夕暮れを特別な時間に変えていたのです。
謎の常連客と制作の裏側
AVANTIには個性豊かな常連客たちが集っていました。中でも印象的だったのが、「取手豪州(とりで ごうしゅう)」というイベントプロデューサーです。お調子者で軽薄なキャラクターでありながら憎めない彼は、番組のコメディリリーフとして欠かせない存在でした。 また、ゲストの話を聞いて豪快に笑う「声の大きな常連さん」を覚えている方も多いでしょう。長年その正体は伏せられていましたが、実はこの番組を企画したホイチョイ・プロダクションズの代表、馬場康夫さんご本人でした。馬場さんは、21年間で延べ2100人ものゲストの話を聞き続け、その相槌と笑い声で番組を盛り上げていたのです。
番組の制作姿勢は徹底した秘密主義に貫かれていました。インターネットが普及する以前から、あくまで「元麻布に実在する店」というスタンスを崩さず、出演者の詳細や裏側を安易に明かすことはありませんでした。この「虚構と現実の曖昧な境界線」こそが、リスナーの想像力をかき立て、AVANTIを伝説の場所へと昇華させたのです。
突然の別れと、残り続ける記憶
しかし、永遠に続くと思われた宴にも終わりの時が訪れます。2013年3月30日、AVANTIは21年の歴史に幕を下ろしました。 最終回では、「閉店」や「番組終了」といった言葉は一切使われませんでした。いつものようにイカの神秘についての会話が繰り広げられ、教授や常連客たちは「来週もまた来るよ」といった雰囲気で店を後にしました。それは、番組が終わっても、リスナーの心の中にAVANTIという店はずっと営業し続けるのだというメッセージだったのかもしれません。 同日に東京ミッドタウンで行われた「パブリック・リスニング」イベントには多くのファンが詰めかけ、スタンが振る舞うお酒と共に別れを惜しみました。
番組終了から長い年月が経ちましたが、今でもYouTubeなどで当時の音源を探し、あの琥珀色の時間に浸る人々がいます。当時の子供たちは大人になり、本物のお酒の味を知りました。 「AVANTI」という言葉は、イタリア語で「前へ」「お入りなさい」という意味を持つのだそうです。 土曜日の夕方、ふと耳を澄ませば、今でもあの重い扉の開く音と、「いらっしゃいませ」というスタンの声が聞こえてくるような気がします。そこには、時代が変わっても色あせない、粋な大人たちの会話と、極上の時間が流れているはずです。
もしあなたが、日常の喧騒に疲れて「大人の隠れ家」を探しているのなら。 ……ひょっとして、AVANTIをお探しですか? あぁ、よかったらご案内しましょうか。私もあの店に行く途中なんですよ。

コメント